Feed on Posts or Comments 24年05月9日

Daily Archive14年05月11日



お知らせ ご案内 &正一と岡山市政、地域活動 &正一の活動日記 &産廃処分場 河田正一 on 14年05月11日

産廃決起集会

5月11に午後、御津金川のふれあいプラザで「御津虎倉産廃反対の決起集会が開かれました.

会場は予備の椅子までいっぱい
冒頭私が「この10年の運動を振り返って」と題して講演をしました。

10年前は、御津町が岡山市と合併するかどうか揺れていた時です。
当時の町長は合併すれば、岡山市の産廃条例は厳しいのできっと許可は下りないと地元住民に説明しました。しかし、市は許可を下してしまいました。私が議会で西日本アチュマト社の箕島処分場が容量超過していることを指摘し、市もそのことを渋々認めたにもかかわらず、許可を下したのです。また、私は義解で豪雨による調整値の容量不足の指摘しています。これが高裁判決でも住民側勝訴となったことです。
昨年12月26日の高裁判決で、業者に対し建設差し止めという逆転判決を出し、住民の勝利に大きく近づいています。

会場外にあふれた人たち
私の後に発言した、弁護士たちは、判決の意味するもの、今後の見通しなどをそれぞれ語りました。
登山に例えて、今8合目まで到達した。しかし、頂上を極めなければ当初の目的は達成できない。そのために、最高裁への署名を地裁や高裁に提出した以上の数を集めようと呼びかけました。
また、近藤弁護士は最近勝訴した原爆国賠訴訟の原告は一人で戦った。しかし、産廃裁判では多くの原告がいる、励まし協力できる仲間がいるのだから、最後までもうひと踏ん張りしようと激励しました。
集会には地元の河太さんが子や孫がコメ作りを続けると頑張っていることを報告。医療生協の西井さんが市内の多くの班が御津に産廃の視察に来て、産廃反対の声が広がっていることを報告しました。

西井さん(左)と河太さん(右)

お知らせ ご案内 &正一と岡山市政、地域活動 &正一と日本共産党 河田正一 on 14年05月11日

同志の死

5月11日、元御津町会議員のT氏のの告別式がありました。彼はH9年から岡山市と合併するまで、2期町議を務めました。合併後は合併特例協議会委員として特例区がなくなるまで委員を務めました。いつも議論の中心にいて、問題点を発言していました。もし彼がいなければ、協議会は議論もなく形骸化されていたでしょう。
彼と最初にあった頃は(彼が町議になりたてで、私が地域整備課長の頃)、私に対して「お前とは考えが違うから親しくしない。」と言い切っていました。しかし、議会での論争や、様々な出来事で意見が合うことが多くなりました。また、彼は犬好きで2匹も買っていましたが、我が家の愛犬に対しても「元気にしているか」と会うたびに気にかけてくれるようになりました。
小泉郵政解散で、自民党に愛想をつかし、立ち上がれ日本を応援しましたが「、どちらのだめだ。頼れるのはもう日本共産党しかない」と言うようになり、入党を進めると最後は「ここしかないからな。」と言って入党しました。その後、河田正一後援会の副会長をしてくれたり、国政選挙で日本共産党への支持を広げてくれました。
最近新聞を読む気力がなくなったといって、「赤旗」の日刊紙をやめて日曜版に変えました。私は目が薄くなったのかと思っていましたが、4月半ばに入院し、がんが全身に転移して手術は無理と宣告された最近になり聞きました。そういえば、年の初めから背中が痛いといっていましたが、がんによるものだったのです。
10日前に、入院を知り、しばらくして見舞いに行きましたが、その時はもう面会できませんでした。彼は熱狂的な”トラキチ”なので、知り合いからもらったタイガース監督時代の星野仙一のレリーフを奥さんに渡し、病室に飾ってもらいました。
市議会の中継もよく目てくれていて、アドバイスももらいました。また、他の議員が勉強をしていないとよく怒りの声を上げていました。
合併の約束が守られていないと、市に対し直接要求を何度もしていました。
ONIビジョンの加入と共同アンテナ組合の問題やコミュニテイバスの運行など地域の要望を私に伝えてくれました。
相談相手を失い落ち込んでいますが、くよくよばかりするわけにいきません。彼が目指していた、御津地域で生活が成り立つようにするにはどうすべきかを、しっかり考えて、彼の遺志を継いでこれからも頑張ります。
どうか安らかにお眠りください。



WordPress Themes made free by Web Hosting Bluebook