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お手伝い : 06年11月24日

私の生い立ち

私は、一九四九年、岡山市御津高津で国鉄労働者の長男として生まれました。田と里山、宇甘川など自然いっぱいの豊かな田舎で、先輩につれられ、山を 走り、川を泳いで育ちました。また一方では、本の好きなおとなしい子どもでした。岡北中学校ではバレーボールに打ち込み、毎日 土のコートで泥んこになっ て転びまわりました。朝日高校でもバレーボール部に所属、最後まであきらめない気力と強靱な体力を獲得しました。
大学進学にあたっては、本で知った東南アジアの人々の貧しい暮らしを少しでも救うことができればと、「農業土木」を目ざしました。洪水を防ぎ、水稲の収量を上げることができればとの思いからでした。
東京教育大学(現筑波大学)に入学した当時、学校は学園紛争の真最中でした。その間、本を読みあさり、友達と人生論を語る毎日でした。

戦争放棄の憲法守るのは日本共産党  二〇才で入党
大学一年生のとき、友人と一緒にのぼった大山で遭難、「九死に一生」を得る中、私の命を人の役にたつものにしたいとの思いが強くなりました。どう生きるか 模索の中、日本国憲法のすばらしさを学び、その憲法を守って頑張っているのが「日本共産党」だと知り、入党を決意しました。二〇才の時でした。学生時代 は、自治会委員長もしながら、七〇年安保反対や沖縄返還の運動に参加しました。それは、私が社会の実態を知り、自分の生き方を確立するための大事な時期で した。
妻の芳子とは、高校卒業時からのつき合いでした。彼女の大学が大阪であったため、手紙と公衆電話での遠距離恋愛でした。

生まれ故郷の旧御津町役場に就職
大学卒業、いよいよ就職を決める時期。自分が力を発揮できる場は、住民の生活と直結した自治体の職員だと考え、生まれ故郷の旧御津町の役場に就職しました。

合併で岡山市職員に
それ以来三三年間、旧御津町・岡山市の職員として、学んだ専門知識を生かしながら、住民と手をたずさえて農業の振興、まちづくり、文化・芸能の保存などにとり組んできました。

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